子どもの未来について児童書界の片隅で思うこと

のんびり日記

とうとう3月が終わってしまいますね。
2020年も4分の1が過ぎてしまったことに。。信じられない!

買い物に出る回数を減らそうとするとどうしても作り置き的な処理をせねばなりません。
これはピクルス風甘酢漬け。
美味しい。でも適当に味付けしたから再現できなーい。

未来への不安

創作に関する話です。

物語の中での「未来への不安」や、SFにおける「現代文明が滅んだ原因」といえば、なんといっても「戦争」が一番多いですよね。
人類の危機といえば核戦争!みたいな。

でも今回、私たちの日常は「病気(感染症)」に対してこんなに脆いんだ、って知ってしまいました。
毎日行かなければいけないはずの学校は行けなくなってしまい、いつまで家に閉じこもっていればいいのか、先も見えない。

実は核戦争って双方デメリットが大きすぎて、起こりそうで起こらない非現実的なものですが、今回のような未知の病気は、人類が存続する限り何度も起こりうる恐怖です。自然災害のような局所的なものでもないから逃げ場もない。
そういう危機が身近にあるということを知ってしまった。

子どもが怖い話を好きな理由って「恐怖や不安を疑似体験したい、恐怖や不安に対する知見を広めたい」からだと思うんですけど、こうなっては、

下手な創作より現実世界のほうが怖い。

ということになりませんかね?
っていうかすでになっていませんかね?

そんな世界で私たちは何を書けばいんだろう……、てなことを考えたりしております。
変わっていく世界に合わせて、創作の世界も変わりますよね。

児童書の挿絵問題と昔話の改変について

一時期話題になった、児童書の絵柄がアニメ調(萌え絵っていうと定義がまたややこしいらしい)になって一部の中高年(?)から不評だという話と、

最近の昔話は残酷な描写がなくなって「敵対しても最後は仲良し」になっているものが多いという話、

私は、これはどちらも「子どもから死が遠ざかった」のが原因では、と考えていました。

昔、子どもはたくさん死んでいましたよね。
死は子どもにとって身近なもので、だから子どもは「死」を知る必要があった。

昔の児童書って怖くなかったですか?
恐怖、っていう怖さじゃなくて、自然に対する畏怖の念みたいなものを抱かせるような、近寄りがたい本、多くなかったですか?
ナルニアやゲド、その他の本も。。。

えっと、もののけ姫の「自然」に該当するところを児童書に置き換えてイメージしてみてください(ってよけい分かりにくいかな)。

ナルニアって子どもたちが疎開するところから始まりますよね。病気だけじゃなく戦争からも子どもは「死」を感じていて、それがあの独特な絵柄と結びついていて神秘的とさえいえる雰囲気を作っているのだと思います。

でも現代、本を買える生活をしている子どもたちは、かなり「死」から遠ざかっていて、「死」に触れる必要がない。

だからひたすら、やさしくあたたかくやわらかい世界が求められるようになったのではないでしょうか。
それで児童書の表紙や挿し絵から「憂い」のような要素がなくなり、昔話の不幸なキャラクタは―死ななくなり、性悪なキャラクターも最後は改心して許してもらえるようになったのではないかと。

It’s a small world!

それだけ平和ならそれはそれでいいんじゃないかと思っていたのですが、意外に日常の平和は脆かった。

世界は明日にはどうなっているか分からないし、自国の行く末もあやしい。
進学や就職も思い描いた通りにいくとは限らない。
そんな世界で、どうやって生きていけばいいんだろう。。

そんな世界で、どういったものを書けば救いになるんだろう。。

実際、未来が予測不能なのは平常時でも同じですが、でも明るい夢を思い描けるか描けないが、メンタルに与える影響は大きいでしょう。

「一生心に残る本」とか「運命や人生を変えた本」とかいう大きな本を目指しているのではないのです。
「今日のあれこれ」や「明日の心配」を一瞬でも忘れられればそれでいい、小さな毎日の中にある小さな本をお届けしたいと思っていて、そのためにはどんなお話を書けばいいのだろう……、てなことをふと思った週末の夜でした。